沖縄闘争 番外編
百万人署名運動・東京北部連絡会の方からの報告です。
19日に伊江島に渡りました。伊江島は「沖縄戦の縮図」ともいわれ米軍に対して住民が土地闘争に立ち上がった歴史があります。
▲安和港の琉球セメントゲート
▲伊江島の全体図 住居は東側に凝縮されており、中央に2本の滑走路、西側は米軍の演習場基地で立ち入り禁止、平地にはタバコとさとうきび畑が広がる。
まず知念正行さんから体験談をお聞きしました。役場の通信員として沖縄タイムズで伊江島の状況を写真や文章で知らせてきた人で、「知念正行資料館」として資料だけでなく当時の鍋釜まで展示されていました。
▲知念資料館
・現在は80歳で4/16米軍が上陸した時は小学生1年だった。戦闘は1週間で終わり米軍の占領が始まった。村民4000人のうち1500人が死んだ。
・2100人が捕虜となり慶良間諸島へ強制移動させられてテント生活を1年、そして本部、久志(辺野古)へまた強制移住させられてテント生活を1年間。裸同然・着の身着のままのひどい生活だった。1947年にやっと伊江島に戻されて生活が始まったが、食べるのにやっとだった。63%が基地の中で、基地から少し離れただけで米軍基地手当が出たり出なかったりと村民が二分されており現在もあまり変わりない状況にある。今も38%は島の米軍に奪われたままという話だった。
その後、戦跡巡りをしました。
「沖縄のガンジー」といわれた阿波根昌鴻さんが設立した反戦平和資料館・ヌチドゥタカラの家を訪ねました。
朝鮮戦争が始まる1954年ころから特に米軍の農地、住居の強制立ち退き、ブルトーザーで家屋を破壊、反対住民に暴行、民家放火など米軍との攻防が繰り返されました。住民大会や「伊江島土地を守る会」結成など伊江島闘争の歴史・村民の生活の写真や阿波根さんの数々の言葉がパネルで展示されています。現在の三里塚闘争や反戦闘争に相通じるものがあります。
▲阿波根資料館入口
▲展示品
▲1955集会写真
▲基地内に立つ看板
▲阿波根さんの言葉
◎ニィヤティヤガマ 住民を守った千人ガマ
すぐに翡翠色の海に繋がる巨大な海岸洞窟で「戦時中は空襲のたびに住民、日本兵、徴用人夫が避難した」とあります。
▲ニィヤティヤガマ
公益質屋跡で米軍の攻撃によって島のほとんどの建物が焼きはわられた中で、かろうじて残ったコンクリートの建物。1週間で壊滅したという激戦が計り知れます。
▲焼け残ったコンクリートの建物
◎辺野古の浜へ
護岸が見えます。以前はこの浜に住民による監視小屋がありました。高く張り巡らした塀には「ドローン警告」看板が。
▲辺野古の浜からみえる護岸
▲ドローン禁止の看板
◎嘉数(かかず)高台公園から普天間飛行場を俯瞰、オスプレイが数機待機。
▲嘉数高台公園にて
◎那覇まで移動して二つの労組訪問
全日本港湾労組(全港湾)沖縄地本の事務所を訪問しました。全港湾は関西生コンと同じ産別組合で、辺野古新基地建設に反対し違法な本土からの土砂搬入にはストライキで闘うと表明しています。また、事前協議制度という雇用と職域・安全を守るための産別協定を締結していて2月に自衛隊が装甲車、ジープなど200台近くの強制荷役を行うという重大な事態が発生し、協定違反抗議と協定順守を要求して24時間のストライキを通告しています。全港湾労組に連帯して19日集会で参加者に寄せ書きをしてもらった「スト支持!共に辺野古阻止!」の激布を山口委員長へ渡して連帯・激励しました。
最後に「とめよう戦争への道!百万人署名運動」団体会員の自治労沖縄県本部を表敬訪問し、改憲阻止大行進への参加や「明記署名」への取り組みを要請しました。